• 80年後の長崎原爆忌を前に

    明日は2025年8月9日。80年目の長崎原爆忌である。

    私が長崎の出身なものだから、病院のチャプレンが長崎原爆忌の前後にときどき病院朝礼のスピーチの機会を当ててくれる。今年もその機会を得たので、以下の話をした。以下引用である。

     おはようございます。

     今日は8月8日です。長崎に原子爆弾が投下されて80年となる日を明日に控え、この場をお借りして少しお話しさせていただきます。

     私は長崎市の北に隣接する農村で育ちました。毎年8月9日の原爆忌は、夏休み中の登校日で、被爆者のかたの話を聞きました。農村の小規模の小中学校であっても、わざわざ外部から招かなくとも、教職員の誰かに被爆体験を語ることのできる人が必ずありました。8月9日は、私にとって、故郷に深く刻まれた日であり、平和の尊さ、人の命の重さを強く思い起こす日でもあります。

     今年、私たちのNICUが、この9月末をもって閉鎖されることになりました。少子化の影響による入院数の減少や、医療をとりまく状況の変化によって、この場所の役目が終わろうとしています。このNICUは、京都の周産期死亡率が全国最悪であった時代に、行く当ての無かった新生児救急症例を引き受けるべく、京都府下初の認可NICUとして設立されました。いまや救いを待つ赤ちゃんがいなくなったということは、このNICUの歴史的役割が終了したとして、言祝ぐべきことなのであろうと思います。しかし医師としての時間の大半をこのNICUに費やしてきた私にとって、この出来事は喪失であり、祈りを必要とする試練でもあります。

     この決定に際して、私一人だけでなく、多くの職員たちにも大きな葛藤がありました。NICUでの日々に深く関わってきた職員の一人ひとりが、それぞれの立場で悩み、考え、受け止めようとしていることと思います。

     その葛藤の中で、私は、爆心地にあり、被爆によって崩れ落ちた浦上天主堂のことを思い出しています。浦上天主堂は幕末の1865年(奇しくも原爆忌からちょうど80年前なのですが)、信仰をおおやけにした浦上村のキリスト教徒の人々が、その後の明治政府による迫害も耐え抜き、1925年に完成した教会です。二つの塔をそなえた教会建築の美しさは東洋一と称されました。しかし1945年の8月9日、まるでこの教会を狙ったかのように原爆が投下されました。

     その時点でまだ完成後20年の浦上天主堂は、さぞや荘厳で美しい姿であったと思われますが、戦後十数年のあいだ、崩れた姿で残されていました。長崎の人々は、この崩れた天主堂をそのまま被爆遺構として残すべきか、それとも祈りの場として修復すべきか、深く悩み、話し合いました。米ソの核開発競争が激化し、ビキニ環礁の第五福竜丸事件など新たな被曝も生じていた時勢に、原爆の記憶を伝える被爆遺構として保存しようという声は長崎市議会などにも強くあったそうです。一方で長崎は中国大陸との貿易港という立場を失い、経済的には造船業に依存する状況となって、海外とくに米国からの発注や投資のことも考慮せざるを得ない状況にありました。浦上の信徒は教会の再建を強く望みました。浦上天主堂は、信徒たちが踏み絵を強いられていた庄屋屋敷跡に建てられましたので、他の場所ではなく是非にもこの同じ場所に再建したいという強い意思がありました。当時の長崎市長であった田川務氏が、天主堂遺構の撤去という方針を決断し、天主堂は再建されることとなりました。昨年、長崎の原爆忌の式典にはイスラエル大使が招待されなかったことで注目を集めましたが、この決断をした鈴木史朗長崎現市長はこの田川氏の孫にあたります。被爆の記憶を伝える天主堂遺構は保存されませんでしたが、平和に対する強い意思と祈りは続いているのだと思います。

     NICUを見送る葛藤の中、それでもその後に続けていく小児科医療のありかたを模索する中で、長崎の人々が直面した天主堂遺構をめぐる葛藤と、その後にも絶えることなく続いた平和への強い意思に、道を示される思いがします。

     戦争と平和、誕生と死。どちらも極限の状況でありながら、人の尊厳や命の尊さについて、両極端から照らし出しているように思います。NICUで出会った多くの赤ちゃんたちは、誰ひとりとして“当然に”生きられた命ではありませんでした。奇跡のように生まれ、周産期の状況を耐え抜いて、そして育っていく姿を、私たちは祈るような気持ちで見守ってきました。

     被爆地長崎で失われた命と、NICUで出会った命。そのどちらにも共通して私が覚えるのは、「どんな命にも等しい尊厳がある」という信仰にも似た思いです。ひとつひとつの命のために尽くすことはNICUを見送った後も変わらないと、あらためて思います。

     聖書にこのような一節があります。イエスが弟子たちに神殿の崩壊を予告した場面です。弟子たちは神殿の荘厳さに目を奪われていましたが、イエスは言われました。
    「あなたがたがこれらのものに見とれているのか。この石ひとつも崩されずに、他の石の上に残ることはないであろう」(ルカ21:6)
    どれほど象徴的なものであっても、永遠ではないということ。建物や制度、私たちの働きもまた、いつか終わりを迎えるかもしれません。ならば残るものは何か、何に目をむけるのかと、イエスに問われているように思います。

     私たちのNICUは神殿に例えるにはあまりにささやかなものでしたが、そこに込められた祈りと命へのまなざしは、決して失われることはないと、私は信じています。NICUは閉じられますが、命に向き合う歩みは続いていきます。この病院で、地域の子どもたちのそばで、これからも働いていきたいと思います。

     ご静聴ありがとうございました。

    本来、勤務先の朝礼スピーチなど内輪のものは外に持ち出すものではない。それは心得ているつもりだが、自分のNICUを失うというのは個人的にはかなり応える状況であるから、無作法は承知で吐きだしているところである。読者諸賢のご寛恕を賜りたい。

    ご寛恕と言えば文中に書いたごとく、長崎出身と言っても市内ではなくいわゆる郡部である。それも平成の大合併とやらで近隣の自治体に吸収されてしまう水準の。それは白状してご寛恕をここにも賜りたい。それが被爆者づらをするのかとのお叱りには、まあパウロもイエスの直接の知り合いじゃなかったですよねとか答えてみたりする。口答えはしつつも、原爆にかこつけて自分の事情の話をしているだけじゃないかというお叱りがあるなら、自分でもそう思っているから既に後ろめたい思いであるし、読者諸賢から頂くようならほんとうに返す言葉もないところである。

    亡くなった被爆者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。またご存命の被爆者の方々も既にお年を召されていることと存じます。ご健康を心からお祈りいたします。

  • 訪問診療を無駄だと言われたこと

    国立成育医療センターの医師に、私が行っている訪問診療を無駄だと切り捨てられたことは、いまだに納得できずにいる。

    私は京都市左京区の小規模の私立病院に勤務し、NICUをふくむ小児科診療を行っている。重い障害をかかえて在宅医療の方針となった子に対しては、細々とではあるが訪問診療を行っている。2009年から始めているので、在宅小児患者の訪問診療としては全国的にもかなり早期からではないかと思う。

    自分の訪問診療に関して学会で発表したところ、国立成育医療センター所属の医師から、それは無駄だと開口一番に切り捨てられたことがある。曰く、そういう訪問診療は集中治療科専門で訪問診療を行っている在宅クリニックの医師に任せれば良い、別に小児科医でなくても診れるとのこと。学会でそのような攻撃的な罵倒に遭遇したことが無く、その場では何も反論できなかったのが我ながらふがいないことではあった。ポスター発表の常で周囲には聴衆も少数しかいなかったが、聴衆からはとくに賛否の意見はなかった。

    学会での論戦はよくあることだろうし、他の施設の医師から言われたのなら見解の相違で片付けることが適切な話ではある。しかし国立成育医療センターといえば国立の小児専門病院として、日本の小児科医療の最高峰に位置づけられる施設である。理事長はもと東大小児科の教授で、小児科医療に関わる国の政策に関してはオピニオンリーダーである。そのような施設の医師が、何の前提条件の確認もなく、「小児在宅医療患者は集中治療専門医で訪問診療を行っているクリニックに任せればよい」と述べてしまうのには危機感を持つ。

    そのような高度に専門的なクリニックが日本全国の津々浦々に行き渡り、たとえば私が当時担当していたような自発呼吸もない人工呼吸依存の幼児例など生じればたちまち訪問診療に行ってくれるような状況であるか。それを所与の前提として在宅医療の方針の話ができるような、日本の在宅医療の態勢はそこまで充実しているだろうか。東京ならばあるいはそのような恵まれた状況もあり得るのかもしれないが、京都はそうではない。皆無とまでは言えないという程度だ。歴史は長くても経済的には一地方都市でしかないし、当院が所在する左京区は洛外だ。まして京都よりももっと医療資源の貧しい地域もあるだろう。日本国内に敷衍するのは無理というものではないか。少なくとも、その貧困な状況下において微力を尽くしている医療者に対し、開口一番それは無駄だと言い放てるような、そんな贅沢な状況ではない。当時も今も。

    私ひとりが罵倒されただけならまだしも、国立成育医療センターという本邦の小児科医療政策に少なからぬ影響力をもつはずの施設が、このような極論に引っ張られて、存在しない在宅医療資源を前提とした政策立案に手を貸してしまったりしたら大変に迷惑だ。この医師は同院でも在宅医療関係に関わっているようなことを言っていたから、これはあながち杞憂ではない。ただでさえ医療政策は空洞化した医療資源を当て込んでの絵に描いた餅に事欠かないが、うっかりそんなことになったら見栄えは良くても腹の膨れない餅がまたひとつ加わることになる。その餅で口を養えと言われても、俺たち医療者はもちろん患者さんも飢えることになる。たまったものではない。

  • NICUの廃止が決まった

    当院のNICUの廃止が決まった。今年9月末で終了する。関連施設へ通知のうえで、病院ウエブサイトにも公開する段階となった。ここで個人的に論じてももはや守秘義務違反ということはないだろう。

    直接の原因はNICU入院数の低下と、それにともなう減収であった。NICU入院数の低下はこの数年実感していた。昔は空床を捻出するのに苦労していたものだったが、いつしか満床のほうが珍しくなった。NICU認可病床を9床から6床に減らしてもなお埋まらなかった。在院する赤ちゃんが1~2名だけで、勤務する看護師のほうが多いということも珍しくなくなっていた。

    入院数が低下すれば診療報酬も減るのは無論のことだが、加えて京都府からの補助金が減り、本年はついにゼロ回答となった。入院数の減少で、地域医療にたいする貢献が少なくなったと見なされたのだろう。もう不要と公的に宣告されたような気がして、懐具合に痛い以上に、精神的に痛かった。

    しかし私情を排すれば、行政の宣告も理不尽とは言えないと、私も理解している。

    背景には少子化の急激な進行がある。京都府下では2016年を境に、出生数の減少のしかたが急激になった。2016年の京都市の出生数は11323人。2024年は7346人であった。複利で計算すれば年平均6.47%の減少率となる。2006年の出生数は11993人なので、同年から2016年まで10年間の減少率は年平均0.57%であった。この点については、過去にもグラフつきで記事を書いたのでご参照いただきたい。

    「市場」と言えば医療にこの言葉を使うのは不適切な気もするがご勘弁願いたい。市場全体の規模が過去8年間、年率6.47%で縮小を続けている。それ以前の減少率0.57%からある年を境に突然10倍以上の減少率となった。最近の減少率の値自体も、変化の急激さも、経済の目で見れば血相の変わるような非常事態なのではないだろうか。

    地域の出生数が減少すれば、NICU入院を必要とする赤ちゃんの数も必然的に減少する。行政が政策的に整備しようとするNICU病床数の目標も減少する。国の政策として地域のNICU病床数の整備目標が、出生1000当たり3床と定められている。2024年の京都市内の出生数を1000分の3すれば22床である。病床数だけで論じるなら、当地の総合周産期母子医療センター三施設のうち二つもあれば充足可能である。

    実際、府下の周産期母子医療センター各施設の空床情報をみていても、連日ほぼ全ての施設で空床有りの表示となっている。もはや新生児救急症例の入院先が府下に一つも得られない夜は過去のものとなった。府の周産期医療政策担当者もまた当然にこの計算をして、この認識に至っていることだろう。その結果が、当院への本年度の補助金ゼロ回答なのだろう。経営難の地域周産期母子医療センターを、救済することに政策的な根拠は見いだせない、ということだろう。

    当院NICUは京都府下ではじめての認可施設として、府の周産期死亡率が全国最悪の水準であったころに発足したNICUであった。行く場のない赤ちゃんたちを見るに見かねて始まったNICUであるからには、もうそのような赤ちゃんはいなくなったというのは、活動を終了するのに唯一の正当な理由ではあろう。他の理由で活動終了するのなら悔しさもあろうが、歴史的使命を終えての退場ということなら、じたばたせず粛々と退くのがよかろうと思う。

    思ってはいるのだが。

    じたばたせず粛々と、とは言え、やはり医師6年目で当院に赴任して以来勤務を続けてきたNICUである。廃止にさいして、喪失感というものもあるはずである。

    はずであると他人事のように述べるのは、今のところそれを実感として感じないからである。医師になって32年のうちの27年間を費やしたNICUを、しかも定年まであと10年を割っているこの時期に閉じることになったのに、その喪失を実感しないというのは異常なことだ。我が事ながらかなり危険な状態なのではないかと危惧している。

    しかしいずれNICU廃止の過程が具体化するなかで、その喪失感も否応なしにおそってくるのだろう。適切な身構えがない状態でそれが実際におそってきたら、人生の終わり近くになって再起困難な衝撃をうけることになるのではないか。ここはまだ頭が平静なうちに、NICUを失うということについて真剣に考えておいたほうがよいと思う。第一には自分のためであるが、人生の終わりで大きな喪失に遭遇するのは何も私ひとりに限った経験ではあるまい。書き記しておけばいかほどか、誰かのためになれるかもしれない。陰鬱な内容かもしれないが、しばらくこのブログで、読者諸賢にはお付き合いいただきたいと思う。

  • 産科病棟の面会制限について

    1.

    「地域周産期母子医療センター長」と称して、自施設の小児科と産科をあわせた周産期部門の長ということになっているので、産科病室の面会制限にも容喙する立場にある。だいたいは産科部長の決定を追認する方針でいるのだが。

    コロナ禍に厳しく制限した面会をどのていどまで緩めるか、思案している。現状は病室外、詰所の前にある「デイルーム」と称する応接セットを何組か置いた空間で、人数を限って面会していただいている。スペースに限りがあるので時間を限って予約制である。

    制限緩和はもうこの程度でよいのではないかと、自分としては思っている。これ以上の緩和となると、病室内まで面会者を入れるかどうかの問題になる。

    それは実質的には、マスク無しの面会を許容するかどうかという問題であると、私は認識している。面会者も病院入り口から廊下まではマスクをして下さるだろう。マスク無しで病院内を歩いている人を見かけることはない。しかし病室に入ったらどうだろうか。総室ならまだしも、個室である病室に入ったら、ああやれやれ到着したとばかりに、反射的にマスクを外してしまうのが人情ではないかと思う。

    むろん個室内での面会を許容したとしても、面会中もマスク着用をお願いするところではある。しかし人間というもの一般に、どれほど慣習の誘引力に打ち克ってマスクの着用を励行していただけるかというと、正直諦めている。根拠は小児科入院の患児とその付き添い者の行動である。回診に行ってマスクを着けておられる患児家族ともに少数派である。きちんとマスクを着けているのは付き添い無しで入院している中学生程度である。人間そんなものなのだろうなと思う。ルールが存在することと、そのルールが自分にも適用されるか否かということとは、多くの人間にとって別問題であるらしい。怠慢や非道徳の結果では無く、人間の自然な本性の結果として。

    面会をデイルームに限っているのは、ある程度の他人の目、とくに詰所からの視線を意識していただくことで、マスクの着用など感染予防策の励行をはかることを主目的としている。

    しかしいかほどマスク着用にこだわることの意義があるか。たとえば産後3日目からとか、褥婦さんの体調があるていど面会に耐えられるころあいから解禁すれば、たとえCOVID-19を持ち込まれ感染させられたにせよ、潜伏期が過ぎて感染力を持つころには退院なさっておられるのではないか、従って院内で水平感染を起こすリスクは上がらないのではないかという発想もある。

    老人の多い病棟なら、潜伏期のうちにさっさと帰してしまうという選択肢はおそらく取りようがない。面会者からの感染が院内で広がる可能性は大きい。しかし退院してしまわれるのなら、あるいはどうか。私見としてはこれは悪魔のささやきである。耳を貸すには躊躇する。実際問題、発症が退院後としても、退院の直後に褥婦が発熱しついで新生児も発熱すれば、どこで移されたかは一目瞭然であるし、それで病院を恨む恨まないとは別に、うちは大学病院でもなければ産科診療所でもないのだら、感染症は他所へ行けとは言えない。自院で診なければならないし、新生児発熱は原則入院という旧来の常識に従うなら再入院ともなるし、そのさいには陰圧個室を準備しなければならない。そこまでを一貫して考えた場合に、退院後発症ならべつに構わないという理屈は、母子にはもちろん自分たち自身に対してさえ無責任であるように思われる。

    2.

    分娩なさる女性にとってはどうなのかと思う。

    医師として、とくに男性医師として回診していると、小児科患者に親御さんの付き添いで入院している個室と、褥婦さんが新生児とともに入院している個室では、雰囲気が全く異なる。小児科患者の個室は子供部屋だが、褥婦さんの個室は成人女性の寝室である。それもベッドメイキングが整った、チェックイン直後のホテルの一室ではなく、寝乱れた寝具が生々しく残る、使用中の寝室である。

    基本的にそのような部屋では、自分が闖入者であることを強く意識されられる。小児科医であるからむろん新生児の要件で訪室しているのであるし、褥婦さんも礼儀正しく応対してくださるのであるが、しかしどうしようもなく取り払えない、基本的に自分はそこに居るべきではないという雰囲気がある。強力なプライバシーの感覚。そこに居て良い人物というのは、家庭でもこの婦人の寝室に入ってよい人物なのだろう。私見であるがせいぜい夫くらいではないか。実母や実姉実妹はわからんがそれまでの関係性にもよるだろう。兄弟や父など男性陣は血縁者であっても無理だろう。義母や義父はどうか。新生児の祖父母ではあり、表向きは笑顔で応対していたとしても、褥婦さんの心中はなかなか穏やかではないのではないか。

    デイルームなら基本寝室ではなく、おそらく居間でもなく客室なので、褥婦さんにとっても許容範囲は広がるだろうと思う。大きなお世話だろうか。自宅でも寝室には入れたくないが客間でなら応接できるという程度の心理的関係の人ならば、デイルーム面会はそれほどの負荷ではないだろうと思うがどうだろうか。

    そりゃあ褥婦さん自身に聞けば早いのだろうけれども、自宅の寝室あるいは産後の病室に入ってこようとする人ほど、入ってくれるなとは直接には言いにくいのではないかと懸念する。それを明言しても後の人間関係が悪化しないなら、そりゃあわが国の女性の幸福のためには幸いなことだけれども、現実問題として日本にフェミニズムや個人主義がそれほど浸透しているだろうか。あるていど病院が杓子定規な存在という汚名を着てでも、褥婦さんのプライバシーを守るほうがよいのではないか。それはインフォームド・コンセントが普及したことになっている現代日本において、パターナリスティックに過ぎる考え方であろうか。その程度にはまだわが国の社会全体がパターナリスティックだと思うのだが。

    3.

    プライバシーの保護に配慮する一方で、産後早期を孤独に過ごさせることが産後うつの増悪因子になるならそれも心配なことである。出産直後の時間を、たしかそういう存在をドーラと呼ぶはずだが、特別な存在であるところの女性(たぶん男性は無理)と共に、あえて病室で濃密に過ごすことで産後うつなど種々の問題の解決につながるのかどうか。面会を制限することでその有用な可能性を絶っているとしたら、まったくパターナリスティックな弊害であると認めざるを得ない。

    たとえば妊婦健診中にも、そのようにして共に過ごしたい特別な関係の人物はあるかと聞いておいて、共に過ごしていただくことが選択肢となるか。なるようならその配慮を個別に行うことに、センター長として反対する意図はない。

    しかしいっぽうで、妊婦さんの周囲の人物がそういう質問をしていると知った場合に、何故それを自分に頼まないのかと自薦してくる人物こそ、たいていプライバシーの観点からは真っ先に排除するべき人物であるようにも懸念される。そういう人物に対して妊婦さんは自分では断りにくかろうし、何なら何故そのようなお節介な質問をするのかと病院に恨みのひと言も言いたくなるだろう。

    これはそのドーラの有用性の定量的な考察となるだろうので、今後の検討課題ではある。研究はおそらくされているのだろうと思う。このドーラに関する項目は本稿の執筆時点で思いついたことなので私自身の勉強はこれからである。「お姑さんは止めておけ」とかいったTIPSが学問的に成立していればありがたいと思う。

  • NICU加算の変更

    今夏から自施設NICUで請求する新生児特定集中治療室管理料、いわゆるNICU加算を1から2に変更した。

    直接の契機は2024年で猶予の切れる「医師の働き方改革」だった。その対策としてNICU当直の労基法上の正式な許可を得たところ、2024年度に入って早々、加算1は当直態勢で運営している施設には認めないと厚労省が言い出した。と言われて夜勤態勢を組むほどの医師の人数を揃えているわけもなく、観念して変更することとした。

    従来の加算1の条件である「過去1年以内に超低出生体重児の新規患者4例以上」は変更直前まで満たしていた。NCIUの当直許可を得られたのでとうめん加算1で継続可能と思っていたので、今回の厚労省の新施策は青天の霹靂ではあった。しかし当直許可を得るための労基署との折衝の過程で、当直時間帯には診療業務はほとんどありませんと、さんざん主張した経緯はある。そんな態勢では超低出生体重児ほか重症例の診療報酬を請求するのにはふさわしくありませんという理屈には、ごもっともと認めざるを得ない。

    2024年という時限を切って医師の働き方改革が強調されるなかで、2023年に駆け込みでNICU当直許可を得た施設は当院以外にも多かったことだろう。当院の人事課担当者からの情報でも、当直許可の申請を出している施設が多数に上ることや、役所の審査もこころもち甘くなっている感触があることを聞いていた。政策として「ヤミ」の当直を明るみに出して当局の管理の下に置くことを最優先とする方針なのだろうなと思っていた。

    果たして2024年度に入った早々の5月にとつぜん加算1は当直では駄目と言い出すのは、政策の進め方としては利口なやりかただと思った。お互いに一手ずつ打ち合って対局の局面が一歩動いたという感触である。私も京都の施設であるからには、「利口なやりかただ」と口に出すときには多少なりとも京都的なニュアンスは含むけれども。

  • 猫の死を看取る

    先日、自宅の最後の猫が死んだ。

    彼女は晩年は私の寝床でともに寝ることを習慣としていた。すっかり弱って飲食もしなくなってからも、私の寝床にいると落ち着く様子であったから、そのまま寝かせておいた。最後は終日、浅い呼吸をするだけでほとんど動かなくなっていた。ときおり頭を持ち上げて鳴いたが、撫でて声をかけてやると安心する様子であった。最後の日、未明にふと目が覚めて、傍らに寝ているようすを見ていると、あらく喘ぎはじめた。ああ死前喘鳴だと思った。まもなく、呼吸が止まった。

    医師という職業上、死に立ち会ったのは初めてではない。小児科医であるから他科ほど頻繁にではないにせよ、NICUなどやっていると赤ちゃんの死に立ち会うことはある。しかし人工呼吸もモニタリングもないまま、素の死を看取ったのは初めてだった。

    そういう死は、もっと漠然としたものだと思っていた。動かなくなったあともしばらく様子をみて、一定時間動かなかったら振り返って亡くなったことにするものだろうと。しかしこの猫の死は、いわゆる「息を引き取る」瞬間がはっきりわかった。

    昔の医者はこうして死を診ていたのだろうか。これに較べれば今の死は、避けようもないことではあるけれど、いろいろと付随するものが多くなっているなと改めて感じた。医者としての目線ひとつにしても、患者さんの顔よりは心電図モニタの画面を見ている時間のほうが長いように思う。頭の中も考えることがいろいろとある。それは仕事であるし当然のことだと思っていたけれど、そのようなことをいっさい排した、ただ看取るだけの死に臨むと、そのシンプルさにたじろぐ思いがした。

  • 2016年に加速した、京都市の出生数の急激な減少について

    先日、京都市の2023年の出生数が発表された。前年10月始まりの9月〆で統計をとるので、この時期に発表になる。2023年(令和5年)の出生数は8109人。前年2022年の8591人から482人の減。率でいえば約5.6%の減少である。

    1990年以降の推移をグラフにすると以下のようになる。2016年から急に状況が変わったように見える。それまでも緩やかな減少傾向にはあったが、以降急落している。年率5%ほどの直線的な低下である。ちなみにコロナ禍の影響があれば2020年前後にもうひとつ変化があるはずだが、それはあまり明らかとは言えない。

    2016年ころ何があってのこの変化なのだろうか。出生数が急激に変化するようなできごとが、この年になにかあったかというとあまり記憶にない。リオデジャネイロでオリンピックがあったりした年。アベノミクスがはじまって3年目。決め手に欠ける。

    京都市の15歳から45歳までの女性の人口の推移をグラフにしてみると以下の通り。

    出生数ほど明瞭ではないけれど、やはり2016年頃から減っているように思う。子どもを産む年齢層の女性の減少。これは少子化を加速する要因になり得ると、2016年以前から言われていたようには記憶する。自然動態だけなら人口の年齢構成はかなり正確に予測できるものなので、将来こうなることは確定した事実ですと2010年以前のいつかの新生児学会で講演を聞いたように覚えている。

    2016年生まれといえば今は小学校に入るころの年齢であるが、当地の今後の小学校では、学年がひとつ下がるごとに人数が5%ずつ減ることになる。小学生関係の「市場」の規模は今後毎年5%のスピードで縮小する。5年すれば中学生相手の市場がそのペースの縮小を開始する。10年後には大学生の市場だ(しかし大学生にはさすがに京都では社会的流入を当てにできるかもしれないが)。15年後には就労する若い人の人数が、年率5%で縮小し始める。これは今年生まれた人がこの人数であった時点で確定したことだ。人口の流入による社会的増減に期待するにも、出生数に関して国内はどこも似たり寄ったりだろうし、京都は大学生世代は多少ましかもしれないが卒業すれば出て行く人ばかりで、それ以外の年齢層にとっては小児も成人も流入が流出を上回るほど魅力的な土地とも思えない。

    各論的なことではあるが、大学生の年代で社会的な流入があることは、大学の定員が変わらない前提でだが、上記の年代の女性人口の減少が出生数に較べて鈍く見えることの一つの要因かも知れない。18歳から20台前半の女性で、京都の大学を選んで当地へ移住してこられた方々は、妊娠出産は念頭に置いてはおられないだろう。そして卒業すれば大阪なり東京なり出て行かれるおつもりの方が多かろう。

    各方面への影響が今後顕在化していくと予想する。

  • Panasonic ハリヤのフロントキャリアにリクセン&カウルのフロントバッグをつける

    できあがりはこんな感じになる。

    Panasonicの電動アシスト自転車ハリヤを買ったら、標準でフロントキャリアがついていた。しかしどうやって使ったものかさっぱりわからない。そのフロントキャリアに装着できる荷物入れといったら前カゴしか見つからない。しかしマウンテンバイクの格好をした自転車に前カゴってありなのかなと、なんとなく無粋なような気がしていた。

    ハンドルバーにマウントするフロントバッグなんか付けてはみたけれど、フロントキャリアがあるのに別途マウントするのもなんだか悔しい気分がした。それにこの製品はマウント用の器具がシフトケーブルと干渉して、変則の調子が悪くなっていた。

    そこで、ハリヤ標準のフロントキャリアにリクセン&カウルのアタッチメントが取りつけられないか工夫してみた。って素人の不細工な浅知恵なんだけど、検索しても同様の試みに行き当たらなかったものだから、同好の士の参考になればと思って書き記しておく。他にももうちょっとマシな方法はあるはずなのだが、あったとしても最善な方法を示さなかったとして私を糾弾するのは勘弁してほしい。

    さて。前置きが長いのは動画編集にしてもブログ記事にしてもそれ自体が素人の証拠だ。本題に入ろう。

    今回つかったリクセンカウルのアタッチメントはキャディーKR851である。横に並んだ2個のネジ穴に止めるには同社ラインナップのなかでもこれしかなかろう。

    キャディーKR851の二つのネジの間隔が、このキャリアの穴の間隔にぴたっと合えば万々歳なのだけれども、残念ながらこのキャリアのがわが数ミリメートルがところ広い。この穴の内側を削らなければならない。先日買った電気ドリルを持ち出してきて、この内側を削る。電気ドリルをそういう目的に使うことが正当なのかどうか、工業高校や工学部でどう教えているのかは知らないが、医学部では生命倫理的に問題さえなければ使えるものは何でも使う。

    不調法な細工ではあるが、だいたい長円形のもとの穴が上の写真のように正円形に近くなるくらいに削れば足りると思う。工学部の人ならノギスで計るんだろうけど、素人なので取りつけたい部品を裏から当てて、こんなもんかなと目見当でやっつけてしまった。

    ここで素人じゃない専門家としてのコメントですが、削るときには鉄くずが飛ぶので保護めがねをかけること。鉄粉が眼球に入ったら視力にたいへん悪い。いちおう俺は医者なのでこれは言っておかねばならん。

    あとはキャディーKR851を装着するのみ。私のように面倒くさがってフロントキャリアを取り外さず作業するときは、ケーブルやヘッドチューブが作業の邪魔なので、ヘッドチューブの後方から届くほどに長いドライバーがあると便利だろう。俺はもってなかったので苦労した。

    できあがりはこんな風になる。

    ここへリクセンカウルのバッグをカチャッとはめ込んだら冒頭の写真になる。フロントバッグが妙に古びているのは使い古しているからである。このバッグは勤務先のNICUで新生児搬送に行くのに使っていた。新生児搬送用保育器のフレームがちょうど自転車のハンドルバーと同じくらいの太さなので、リクセンのハンドルバー用のアタッチメントを付けて、蘇生用具を満載したフロントバッグを装着している。

    写真の向かって左手にあるのが現役のもの。搬送用保育器を押していくのが間に合わないほどの、一分一秒を争う事態でも、このフロントバッグと右手下方の工具箱とを両手に提げて走れば、とりあえず心肺蘇生は開始できる。取り付けの頑丈さと取り外しの迅速さが両方必要なのだが、リクセン&カウルの製品が最善ではないかと思う。

    必要十分の荷物をいかにコンパクトにまとめるかという点で、新生児搬送と自転車には共通したものがある。当直続きでサイクリングに行けない鬱憤を仕事で晴らしとるのやろと言われると否定はできない。

    ポケットマネーで買っていた(試行とはいえ公私混同だよなそれ)先代のフロントバッグが置いてあったので、これを機会に引き取った。Amazonの購入履歴を参照したら、2011年の9月に買ったリクセン&カウルのオールラウンダーフロントバッグKT812である。10年ほども使ったのにほころびているのはバックルベルトだけで、バッグ自体の強度もたいしたものである。このベルトがほころびたのもアンビューバッグやなんか大量の荷物を無理矢理詰め込みすぎたからなので、弱点がそこにあるというわけではない。と言って出先でちぎれて中身をばらまくのも始末が悪いので、より大きい新製品に買い換えたものである。

    何人もの赤ちゃんの救命に役立ってきたフロントバッグを付けて走っていたら、事故に遭う確率もなんぼか減るのではないかしらと思う。あるいは悪運を使い果たしているかもしれん。よくわからん。現役のは予算請求して買ったんで間違って持って帰らないようにしないと(まあそれくらい自分で決裁できる程度の権限はあるんでやっぱり自分の趣味を通してるんですけどね)。

    キャリア下方や後方のクリアランスはこんなふう。

  • Burley TRAVOY V1を修理する

    自転車の後ろに牽引するトレーラー「トラボーイ」を愛用している。長年使っている初代のトラボーイはしかし、キックスタンドの強度に難があって、樹脂製のスタンド部品が壊れていた。自転車から離して直立させるときに、二つの車輪とこのスタンドの3点で支えるのだが、車輪にはブレーキがかからないから、立てたトレーラーの長軸方向の回旋にたいしてこのスタンドしか阻止する抵抗が働かない。メーカーもそれは気づいているらしく、最近販売している改良版はこのスタンドがずいぶん丈夫そうになっている。

    ふと思いついて代理店であるライトウエイさんに問い合わせてみたところ、この樹脂部品の在庫があるとのことで、1個800円プラス送料で送ってもらえた。リベットで固定しなければならないが大丈夫かと聞かれたので、多少不安があるから3個買うことにした。地元の自転車屋さんを介して購入したのなら、その店にこの部品を持ち込めば修理してもらえるのかもしれないが、俺はAmazonで買ったので自分で修理するしかない。

    またもAmazonで、DIY用の電動ドリルと刃、オートポンチ、ハンディリベッターとリベット、切削油、保護めがねを取り寄せる。オートポンチでリベットの頭にくぼみをつくり、ドリルで削ってリベットの頭を外す。表裏のリベット頭を外すとスタンドが樹脂部品から外れる。壊れた樹脂部品を本体から外し、新しい部品をはめこむ。新しい部品の素材は古い部品よりもはるかに硬い樹脂になっていた。古い部品を外すときよりも、新しい部品の装着のほうが手間も力も必要だった。同様の壊れかたをする可能性はだいぶ低くなったと思った。

    樹脂部品にスタンドの金属製の脚を射し込み、リベットで止める。リベットはM4.0の8mmのものがちょうどよく固定できた。最初に10mmのものを使ったが緩すぎた。裏表ともリベット止めして完成。

    いちど訪問診療に使ってみたが、壊れかけたスタンドを恐る恐る使うストレスが解消して良かった。

    ただ、後になって気づいていまも思案中なのだが、鉄製の部品を固定するのにアルミのリベットを使ってしまったのは失敗だったかもしれない。たしか異種の金属を長期間接触させておくのは腐食のもとだったはずだ。早いうちに鉄のリベットでやり直したほうがよいのかもしれない。でも鉄のリベットってハンディリベッターから買い直しだよな。億劫だ。

    それにしても、俺は何をしているんだろうな。ついにはリベット打ちまで自分でやることになるとは。

  • 京都市内各区の出生数の減少を比較する

    産科の主張によれば、京都市内での分娩数は京都市南部の各区で増えており、当地など北部は減少しているとのこと。京都市北部は土地代ほか高騰し、もはや若い夫婦が居を構えて赤ちゃんを産むことのできる土地ではないという。そのとおりなのかどうか、京都市の統計サイトから住民基本台帳ベースのデータをひろってみた。

    各区の比較のために2015年の出生数を1として、その後の推移をプロットした。2015年から2022年までの7年間で、京都市全体での出生数は75%ほどまで低下している。当地である左京区は70%までと、たしかに京都市全域を上回る減少率である。しかし南部である伏見区や南区とて決して増えている訳ではなく、80%まで減少している。当地と較べればまだましなのかもしれないが、それにしても7年間で80%まで減るのは絶対値としてはたいがいな減少ぶりではないか。

    東山区がどうしてこれほど独走状態で減少しているのかはわからないが、その他の区はそれほどの差だろうか。2割減るか3割減るかは大きな差だと考えるべきか。悪い状態において五十歩百歩というべきか。まあ南部とて、産科の言うほど「増えて」はいないのは確かである。