明日は2025年8月9日。80年目の長崎原爆忌である。
私が長崎の出身なものだから、病院のチャプレンが長崎原爆忌の前後にときどき病院朝礼のスピーチの機会を当ててくれる。今年もその機会を得たので、以下の話をした。以下引用である。
おはようございます。
今日は8月8日です。長崎に原子爆弾が投下されて80年となる日を明日に控え、この場をお借りして少しお話しさせていただきます。
私は長崎市の北に隣接する農村で育ちました。毎年8月9日の原爆忌は、夏休み中の登校日で、被爆者のかたの話を聞きました。農村の小規模の小中学校であっても、わざわざ外部から招かなくとも、教職員の誰かに被爆体験を語ることのできる人が必ずありました。8月9日は、私にとって、故郷に深く刻まれた日であり、平和の尊さ、人の命の重さを強く思い起こす日でもあります。
今年、私たちのNICUが、この9月末をもって閉鎖されることになりました。少子化の影響による入院数の減少や、医療をとりまく状況の変化によって、この場所の役目が終わろうとしています。このNICUは、京都の周産期死亡率が全国最悪であった時代に、行く当ての無かった新生児救急症例を引き受けるべく、京都府下初の認可NICUとして設立されました。いまや救いを待つ赤ちゃんがいなくなったということは、このNICUの歴史的役割が終了したとして、言祝ぐべきことなのであろうと思います。しかし医師としての時間の大半をこのNICUに費やしてきた私にとって、この出来事は喪失であり、祈りを必要とする試練でもあります。
この決定に際して、私一人だけでなく、多くの職員たちにも大きな葛藤がありました。NICUでの日々に深く関わってきた職員の一人ひとりが、それぞれの立場で悩み、考え、受け止めようとしていることと思います。
その葛藤の中で、私は、爆心地にあり、被爆によって崩れ落ちた浦上天主堂のことを思い出しています。浦上天主堂は幕末の1865年(奇しくも原爆忌からちょうど80年前なのですが)、信仰をおおやけにした浦上村のキリスト教徒の人々が、その後の明治政府による迫害も耐え抜き、1925年に完成した教会です。二つの塔をそなえた教会建築の美しさは東洋一と称されました。しかし1945年の8月9日、まるでこの教会を狙ったかのように原爆が投下されました。
その時点でまだ完成後20年の浦上天主堂は、さぞや荘厳で美しい姿であったと思われますが、戦後十数年のあいだ、崩れた姿で残されていました。長崎の人々は、この崩れた天主堂をそのまま被爆遺構として残すべきか、それとも祈りの場として修復すべきか、深く悩み、話し合いました。米ソの核開発競争が激化し、ビキニ環礁の第五福竜丸事件など新たな被曝も生じていた時勢に、原爆の記憶を伝える被爆遺構として保存しようという声は長崎市議会などにも強くあったそうです。一方で長崎は中国大陸との貿易港という立場を失い、経済的には造船業に依存する状況となって、海外とくに米国からの発注や投資のことも考慮せざるを得ない状況にありました。浦上の信徒は教会の再建を強く望みました。浦上天主堂は、信徒たちが踏み絵を強いられていた庄屋屋敷跡に建てられましたので、他の場所ではなく是非にもこの同じ場所に再建したいという強い意思がありました。当時の長崎市長であった田川務氏が、天主堂遺構の撤去という方針を決断し、天主堂は再建されることとなりました。昨年、長崎の原爆忌の式典にはイスラエル大使が招待されなかったことで注目を集めましたが、この決断をした鈴木史朗長崎現市長はこの田川氏の孫にあたります。被爆の記憶を伝える天主堂遺構は保存されませんでしたが、平和に対する強い意思と祈りは続いているのだと思います。
NICUを見送る葛藤の中、それでもその後に続けていく小児科医療のありかたを模索する中で、長崎の人々が直面した天主堂遺構をめぐる葛藤と、その後にも絶えることなく続いた平和への強い意思に、道を示される思いがします。
戦争と平和、誕生と死。どちらも極限の状況でありながら、人の尊厳や命の尊さについて、両極端から照らし出しているように思います。NICUで出会った多くの赤ちゃんたちは、誰ひとりとして“当然に”生きられた命ではありませんでした。奇跡のように生まれ、周産期の状況を耐え抜いて、そして育っていく姿を、私たちは祈るような気持ちで見守ってきました。
被爆地長崎で失われた命と、NICUで出会った命。そのどちらにも共通して私が覚えるのは、「どんな命にも等しい尊厳がある」という信仰にも似た思いです。ひとつひとつの命のために尽くすことはNICUを見送った後も変わらないと、あらためて思います。
聖書にこのような一節があります。イエスが弟子たちに神殿の崩壊を予告した場面です。弟子たちは神殿の荘厳さに目を奪われていましたが、イエスは言われました。
「あなたがたがこれらのものに見とれているのか。この石ひとつも崩されずに、他の石の上に残ることはないであろう」(ルカ21:6)
どれほど象徴的なものであっても、永遠ではないということ。建物や制度、私たちの働きもまた、いつか終わりを迎えるかもしれません。ならば残るものは何か、何に目をむけるのかと、イエスに問われているように思います。私たちのNICUは神殿に例えるにはあまりにささやかなものでしたが、そこに込められた祈りと命へのまなざしは、決して失われることはないと、私は信じています。NICUは閉じられますが、命に向き合う歩みは続いていきます。この病院で、地域の子どもたちのそばで、これからも働いていきたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。
本来、勤務先の朝礼スピーチなど内輪のものは外に持ち出すものではない。それは心得ているつもりだが、自分のNICUを失うというのは個人的にはかなり応える状況であるから、無作法は承知で吐きだしているところである。読者諸賢のご寛恕を賜りたい。
ご寛恕と言えば文中に書いたごとく、長崎出身と言っても市内ではなくいわゆる郡部である。それも平成の大合併とやらで近隣の自治体に吸収されてしまう水準の。それは白状してご寛恕をここにも賜りたい。それが被爆者づらをするのかとのお叱りには、まあパウロもイエスの直接の知り合いじゃなかったですよねとか答えてみたりする。口答えはしつつも、原爆にかこつけて自分の事情の話をしているだけじゃないかというお叱りがあるなら、自分でもそう思っているから既に後ろめたい思いであるし、読者諸賢から頂くようならほんとうに返す言葉もないところである。
亡くなった被爆者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。またご存命の被爆者の方々も既にお年を召されていることと存じます。ご健康を心からお祈りいたします。











